読み取る力 by.立佳
私、映画が好きなのですが、いつも自分が好きなジャンルのものであったり、自分が好きな役者さんが出ているものであったり、自分が好きな監督さん、脚本家さんが関わっているものを選んで見てました。
でも最近、なるべく色んなものを見ようと思い、人にオススメしてもらったものだったり、お店のオススメだったり、昔の名作と呼ばれるものだったり・・・と普段自分では選ばなさそうなジャンルの映画を見てみました。
特に昔の映画は今までほとんど見なかったのですが、色々見ていて昔の映画と今の映画では大きく違うところがあるな・・と感じました。
昔の映画を見ていて、登場人物たちが何故こんな行動をするのか。
どういう感情なのか。
正直わからないことがたくさんありました。
それは時代背景や舞台になっている国について、私があまり知らないから・・・ということだけではなく、昔の映画は今の映画と違って全部を伝えないからだと思いました。
必ず見る側が感じとるスペースがある。
だから色んなことを考えるし、色んなことを感じられる。
例えば、病人の額に手をあてて、熱が高ければ「凄い熱」という台詞をよく耳にします。
でも、昔の映画ではその台詞がなくて、病人と看病する人の状態を見て、見ている側が自分で判断する。
1の情報で10を読み取らなければならない。感じ取らなければならい。
今の映画も素晴らしいものや、面白いものはたくさんあるし、今だからこその新しいものもどんどん出てきます。
そういうものでしか感じられない感情や想いもあると思います。
でも、逆に昔のものでしか感じられない感情や想いもたくさんあるんだなと思いました。
きっと、自分が感じたことがないもの、考えたことがないことがこの世の中にはたくさんある。
それを知っていくことが楽しく思い始めてきましたし、もっともっと色んなことを知りたいなと思いました。
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自分の世界 by.立佳
少し前になってしまうのですが、兵庫県立美術館に「だまし絵展」を見に行ってきました。
だまし絵とはトロンプ・ルイユとも呼ばれる美術の手法なのですが、
平面上の紙に描かれている絵画が陰影や色味の具合で立体的に見えたり、パッっと見は人間に見える絵画がよく見たら色んな物の集合体だったり、右から見たときと左から見たときでは見えるものが違う作品だったりすることです。
自分の目の錯覚や思い込みによって起こる錯覚を突きつけられることに、最初は凄く「おもしろいな」と感じたていたのですが、最後の方は脳の普段使わないところを使ったような感覚に正直疲れてしまいました。
芸術作品として、素晴らしいものがたくさんあって素直に感動したのですが、自分が錯覚していることや・思い込んでいることの裏にはなにか別のものがあったり、別の角度で物事を見てみると違ったものが見えてきたりということを、凄く分かりやすい形で提示されたような気持ちになりました。
一つのものには色んな面があるし、一人の人間にも色んな面があれば、一つの言葉にも色んな意味やそれを発する人の感情によってかわってくる。
そんなことわかってるつもりでも、すぐに自分が見たもので判断して、悩んだり落ち込んだりしてしまう。
自分が片面から見たものについてたくさん考えるんですが、本質が見えていないため勿論答えはでない。
色んな方向から物事を見ることに疲れてしまうというのは、普段、色んな方向から物事を見たり・考えられてはいないからなんじゃないかなと思いました。
そしてそれは、無意識に自分が見たくないものから目を逸らそうとしているからだと思います。
でも、見えたものが自分が見たくないものかどうかは実際見てみないとわからないですよね。
見えないものに怖がって世界を狭めてしまうなんてもったいない。
でも、そんなもったいないことを私はずっとしてきたんだと思います。
正直私は、凄く臆病者でビビリです。
だからって見ないふりや見えないふりをしていたら前になんか進めないし、何も変わらない。
周りが変わったときに、自分の変わらなさにやっと気づくなんてもう絶対に嫌です。
もっと自分の世界を広げたい。
今回改めてそう思えました。
みなみ 美ら/百聞は一見にしかず
先日、海外ドラマの収録現場を見学させていただきました!!
今回見学させていただいたのは、WOWOWで放送中の「中国歴史ドラマ 孔子」という作品です。
この作品は、1日で2話収録する現場だったのですが、演出家の市来 満さんのご厚意で、1話目は副調整室で見学させて頂き、なんと2話目はブースの中で見学させて頂くことが出来ました!
今回は、1話づつ別々の場所で見学することができたからこそ、感じることが出来た事をメインに書きたいと思います。
まず1つ目は…
抜き録りと言って、掛け合いのシーン等を別々に収録することがあるのですが、今回の収録でも抜き録りが何度かありました。
副調整室の中では、先に収録した方の音声を流しながら、別の方の収録をしているので、ブース内で役者さんが原音などを確認するヘッドフォンにも先に収録した方の音声が流れていて、それを聞きながら喋っているものだと私は思っていました。
でも、ブース内で実際にヘッドフォンをつけさせて頂き、流れてくる音を聞いていたら、先に収録した方の声は微かに聞こえる程度で、ほとんど中国語の原音の音しか聞こえなかったのです。
収録した声だけを聞いて掛け合いをするのも凄いことだと感じたのに、相手の声が聞こえない状態で掛け合いをしていて、それが成立している・・・・・その事実に凄く衝撃をうけました。
それが出来るということは、映像の情報だけではなく、相手の声や演技など色々な事を覚えていて、記憶や経験の中のその相手と掛け合いをしているということ。
これは、自分の事だけではなく、もっと色々な事にアンテナを常に張って感じたり記憶していないと出来ないことだと思うのですが、今自分の事で手一杯になってしまう私には、とても凄い事だと感じました。
これは、副調整室で見学してから、ブース内での見学させて頂いたからこそ感じられたことだと思います。
きっと、最初にブース中でヘッドフォンからどう流れるかわかっていたら、何もひっかかることもなく終わっていた気がします。
次に2つ目は・・・
副調整室とブースの中で聴く音が全然違う事に驚きました。
人の声は1つの音だけではなく、色々な音が出ていると思うのですが、ブースで聞いた時は、先輩方の声に様々な音を感じる事が出来たのですが、マイクやスピーカーを通すと、機械達が拾いやすい音だけを選んで音を流しているように思え、音の数が生で聞くよりも少なくなっているように感じたのです。
聞こえる音の数が違うだけで、響き方が違って聞こえたり、少し違う印象を受けたり、自分が思っていた以上に変化してしまうことを目の当たりにし驚きました。
役者はマイクやスピーカーを通ったら音がどうなるのか、そこも計算して表現しないといけないと言うのを改めて感じ、それを操れる凄さを感じました。
これは、ブース内で、マイクのある場所と近い場所で見学させて頂けたからこそ、顕著に感じることが出来たことだと思います。
他にも、呼吸を合わせて一緒にセリフを喋る難しさだったり、主役の野島昭生さんの演技を聞いて泣きそうになったり、ブログに書ききれない程、色々な事を感じることが出来ました。
最後に・・・
全体を通して、今回の見学で一番今の自分が強く感じたことがあります。
それは、基礎は大事だと言う事です。
自分がこの現場に出演していたらと想像した時に、意識をしなくても基礎が出来ている先輩方の中に、まだ意識しないと出来ない自分が入る事はとても怖い事だと思いました。
基礎を意識をすれば表現が疎かに、表現を意識をすれば基礎が疎かになってしまう、そんな自分の姿が容易に想像出来たから怖いと感じたのです。
基礎が大事な事は理解していたのですが、実際の現場の空気を肌で感じ、改めてその大切を実感しました。
基礎を含めまだまだ、身に着けないといけない事が山ほどありますが、それを一つでも多く身に着けて、今回の孔子の現場で出会えた方々と、早く共演できるようになりたいと思いました。
その為に、今の自分の課題と今まで以上に真摯に向き合い、成長できるように頑張ります!!